昭和46年2月15日 朝の御理解
御理解第二十二節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、
受ものが悪ければおかげは漏れるぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ま
まよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよの
ことぞ。」
「受ものが悪ければおかげは漏るぞ」と。受ものということは、ここでは心ということでしょうが、ここでは、やはりお徳ということだと思いますね。お徳を、お徳を受けるということが、神様のおかげを漏らすことなく受け止めることが出来る。なかなか。「十分の徳を受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」とね。ここのところが難しいだけに、また、有難いところだと思いますね。どうでも、おかげを受けなきゃならんから、「ままよ」と言っておるのは、それは本当のままよじゃないわけですね。「ままよとは死んでもままよのことぞ」とね。このところね。どうでもおかげを見せてもらいたい。おかげを頂きたい。と言うて「ままよ」と言うておるのは、こりゃ「ままよ」にならないわけなんですね。
天地の親神様は、「天地を一目に見ておられる。」ですから、平等におかげを実は授けておられる。けれども、お互いの受ものが悪いから、それを漏らしておるだけのことだと。だから、信心というのは、そこんところを信じることね。神様のおかげは絶対のものなんだけれど、こちらの受もの方が絶対でないところにおかげになっていない。これだけ拝んだけれど、これだけ頼んだけれどおかげにならなかったと。神様の方は絶対のもの。こちらが、受けもの、受ける力を持ってなかったいうこと。
昔、子供の時に、あの、お堂の水天宮さんのお祭りの時に( ? なんとかの店)それだけが大変、印象に残っているのですけれども。このくらいばっかしのね、あのナイフをこちらの方で持っとて、向こうの方に人を立たせて、それを投げる。向こうに、壁の向こうにこうやって、大の字になって壁の前に立っておる。それに向かって、こちらから投げる。もう、ここん所をスッ-パァ-と、あのナイフがつき通って行くわけなんですね。もう、見ておってもハラハラとする。( ? )
たいしたもんだとね。ちょっと間違ごうたら、もう、命取りでありましょうけれどもね。
私は、神様が投げて下さる剣というものは、それよりももっと正確だと思うのですね、実は。いわゆる絶対なのです。ただし、こちらがね、こちらが動くから危ないのです。ハッと思うてからこちらが迷う。こちらが動じるね。というように神様のおかげというものは、それこそ大地を叩くほどに絶対なんだけれど、それを、こちらが動揺する、こちらが動く、こちらが迷う、ね。そういう所から、おかげが漏る。そこで私共は、お徳を受けなければならない。お徳を受ければ、いわば「ままよという心を出さねばならん」と、こう頂いた。「ままよという心」( ? )とは、いうなら、迷いも起こってもよかろう、不安であってもよかろう、動揺しておってもよかろう。けれども、それは度胸であるね。不安で不安でたまらない。心配で心配でたまらない。けれども、そこんところをですね、いわゆる信心度胸と申しますか、度胸を据えてかかって、そして「よし、間違って死ぬなら死んでもよい」という、ドン腹を据えるね。そういう、私は生き方がね、徳を十分に受けていくことが出来る。
御理解二十一節の前の所にね、「カンテラに油がいっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ、世界が闇なり。」というところがありますね。その御理解の中に「芯」ということを頂きましたね。「カンテラの中に油がいっぱいあっても、芯がなければ火がともらない」という御理解。神様のおかげは絶対のものね。それこそ、「降るようにあっても、お徳の中に埋まっておっても、氏子に芯がなければ」とこう言われる。そこで、今日はお互いの信心の芯になっておるところは、どういうところか、というようなことを頂いたわけなんですね。信心に、例えば、有難いと、もう、全てが有難という答えが出てくる。もう、有り難うならして頂くけいこだと、例えば(?)。ですから、初めかっら有難くはなれないのですね。例えば、有難いところが、かえって腹の立つような問題があるかもしれません。けれども、これは、こちらが間違うておるから腹が立っておるのだということだけは、分かっておらなければ。そして、ああではなかろうか。こうではなかろうか、と心を練らせて頂くところからですね、正確に有難いという答えが出てくるのですね。だから、神様は絶対というものを信じておるけれども、徳のない間は、それを絶対として受けられない、やはり不安である。心配である。けれども、そこにお互い、いよいよの時には、ひとつ度胸を据えてです、もう、死んでもままよというな心を創るというね。その例えば、日々のけいこが、(?)私共の心の中にね、信心とは、もう、有難くなることだと極まったとね。信心とは、和賀心を目指す以外にないんだと、いうふうにです、そういう、絶対に間違えのない信心の芯というものが出来るね。そういう、けいこを日々させて頂きますね。これは有難いことであるけれども、これは有難くない、というようなことは絶対にない。絶対にないという、神様の絶対の働きというのはね、絶対愛なのだから。私共はそれを絶対信をもって受けるわけね。ところが、こちらの受けもの、こちらの心が状態が出来ていないので、それが有難くないだけのこと。そこで、有難くならせて頂くというこに焦点を置くというのです。どういう難儀な問題であっても、本当にそこを分からせて頂いたらね、神様ありがとうございます、と言うて、お礼を申し上げなければならないことばかっりなんだ。そういう、例えば、芯というものに火が灯る。信心の熱がこもる。そこから、いわば、「ままよ」という心も生まれてくる、または、あさの、おかげになる、という確信もて、おかげになる、というのは広い意味のおかげですよね。例えば、死んでもおかげになるという頂き方ですね。そういう、例えば、おかげをね、私共の上に、どうどうにおかげを下さってある。そこんところを信じることが、より絶対信です。そこで、受けもの作りをする。受けものが悪ければおかげは漏るのですから。そこで、良い受けものを作っていく。その受けものを作るということが、お互いの信心の中身というのがですね、筋金というものが、どこに置いてあるかという、いわば芯になるところを頂いてね、それを信心とは偉くなることでも、賢こうなることでもない。とにかく有り難うなることだと、すべてを有難く、有難い、勿体無い、で受けていける私にならなければならない。有難い、勿体無いで受ける、それが本当なんです。それを私共が分からないから、ただ有難いと受けられないだけのことだ、ということを信じてね、答えはそれなんです。ところが、有難くない、という答えが出ておるところに、これは計算違いであることを分からしてもろうて、けいこしていくところからね、それは、いわゆる神様の絶対愛であるということが分かってくる。そこからお礼が申し上げられるということになってくる。
これは、全ての事においてそうです。もう、私共が、様々な難儀を感じる時には、なかなか、その難儀そのものが有難いと頂けない。願っても、願ってもおかげにならん。今日も謝金払いに行かなきゃならん。もう、何回も何回もお世話になっておる所、謝金の断わりに行くのですから、もう、本当に身を切られるように辛いこと。向こうは決して良い顔はしない。もう、あんたばかりは嘘ばっかり。もう、あんたは見損のうたと、もう、それこそ、(?悪漢ぞうおうばかり)聞かなきゃならん。けれども、やはり断わりには行かければならん。それが私の信心。それが実意である。そういうことは、、もう、いっつもでした。椛目から福岡に謝金の断わりに行かなければならない。当時、私、バス賃を持っとりましたから(?電車の名前)電車を利用した。大城から乗った。大城までやらせて頂いたら、善導寺の小川さんちいう、桶屋さん、樽屋さんが一杯機嫌で電車を待っておる所に私も丁度来た。「あぁ-大坪さん、どこ行きよるか」と。「あ-福岡です。」と、そんな色々の話からです、丁度、照国ちいう、照国という横綱が、横綱の時代です。久留米の「みい町」に、「こうじょう」で、来ておる。それを前日、見に行ったと言うて相撲の話しをしてくれた。その時、丁度、「みい町」から一人の弟子入りをした人があった。まあ、その時に、朝から樽屋さんですから、当時はお酒は闇で、なかなか手に入らないんですけれども、樽屋さんですからね、( ? )に、酒屋に良い酒を二升もろうてから、分けてもろうて、一本は照国に、一本は自分が飲むのにと思うて、持って相撲を見に行ったとこういうわけ。そして、朝早よから、けいこの時から、ところが、その相撲を見ながら、段々、しておったら、とうとう、その時やる酒まで飲んでしまもうた、という話でしたね。そして、もう、それはそれは、もう、けいこの時の相撲を見たが、もう、あれは他人だから見れるけれどもね、あれが、もし身内もんとか、親もん見られはせんて。よぉう、あげなと見てから、もう、(?)こなすこつこと、こなすこつこと、土俵の上で。もう、はいも立ちもなっとらんのを、また腰をあげてとってから叩く。もうそこから、ごそごそ立ちきらんから、そのう、土俵の外にほうて逃げる。逃げるよる。それを後ろから引っ捕まえて、引き上げてから叩くところ、ね。叩いて鍛えなさるね。私は、そういう話をその(?)の話を聞かせて頂きながらね、私は、もう、どうもできんごと感動した。ね。これは、私はもう、それこそ、これは金銭の上で、はいも立ちもできんほどしに、きつい思いをしておる。あれはね、もう、五へん十ぺんぐらいの借金の断わりもええですけれどもね、もう、あんまり借金の断わりばっかり行きよっても、その人の家に入られんのですよ。わざわざ、椛目から福岡までも借金の断わりに行っとてね、その人の家の前でピッタと足が止まってしまってね、足がすくんだようになってから、もう、入られん。だから、その人の家の前をぐるぐると周りよる。そこに勇気を出して、飛び込んでいくようにして、向こうから言われる。また断わりに来たのち(声を詰まらせる)。もう、それこそ、目も当てられない、本当に「四百四病の病より貧ほど、辛いものはない」というのは、本当にそうだなと実感するほどしにつらいこと。そういうことなのですからね、私は、その時思ったことは、小川さんの話を聞かせて頂きながらね、例えば、鍛うというからにはね、やはり、これは少しは見込みがあると思うからこそ鍛うのである。もう、こんなのはつまらんというふうに、鍛うはずがないね。「これは、末は大関か横綱か」と、これを鍛えりゃ、(?)になるぞ」という(?)鍛うんだと。「私は、今、鍛われておる。末は横綱か大関か」というようにですね、思わせて頂いたら、もう、それこそモリモリとするような元気な心が湧いてきた。もう、それこそ矢でも鉄砲でも持ってこい。もう、それこそ心が軽うなった。そんな気持ちで断わりに行かせて頂いた。それが最後であった。「もう、大坪さんこんでよかばいち。もうあんたができてから来てくれたらよか」というようなことじゃった。
こちらの心の状態がおかげを受けると成程、そうなんだと思いますよ。そういう状態が、どのような場合でも出来る。もう、「ままよ」という心ね。これは全てのことにそれは言えます。そして、そこに分からして頂くことはです、そうして鍛えられておるということは苦しいことだけれどもね、神様がね、「本当に力を下さろう、お徳を下さろう、十分のお徳を受けさせて下さろうとする働きのほかなかった」と分かる時に、「痛いけれどもありがとうございます」とお礼を申し上げねばおれないことになる。そういう心の状態がお徳を十分に受ける心。
昨日、信司郎さんが、ここに出て参りましてから、丁度、御祈念中に眠ってしまった。だからお夢を頂いたとこう。それは、えらい古風なバスの、昔の段の付いたようなバス。それに乗せてもらった。ところが中は、もう椅子の上にほこりがいっぱい溜まっておる。といったようなバスであった。動いちゃおる。というなお知らせを頂いたとこういうわけ。また、次に続いて頂いておるのは、お風呂に入らせて頂いておったと。ところが、そのお風呂に入らせて頂いたら、お風呂の外に、やはりお風呂が自然風呂。丁度、ジャングル風呂のようなお風呂であった。という、まぁ、まさしくお知らせであろうと思われるお夢であった。とこういうわけ。で、私は申しました。それが、合楽の信心の姿であろうとこう申しました。
成程、ここでは、古風な( ? )辛抱さえすれば、中身は少しほこりがあることを辛抱すれば、徳の車に乗ることが出来る。これは、合楽の信心はそんなもんだろうとこう思う。ほこりは自分ではらうわなにゃならん。少し古風であるね。やはり、自動車はお徳と仰しゃるから、合楽という、いわば徳の車にお互いが乗せて頂いておる。けれども、なかなか、その車は古風である。しかも中はほこりだらけである。まぁ、もちろん、これが最新式の大型バスのようなね、それこそ、他にはないような、おかげを頂かせてもらう、そういう教会を目指さなければならないことは、もちろんなのである。古風ということは、私は極楽だということだと思うね。お風呂に入って、あぁ極楽、極楽と言うでしょうね。合楽のお広前にお引き寄せ頂きますと、なんとはなしに極楽に行った気持ちがしますよね、皆さん。どんなに難儀な時であっても、苦しい時であっても一生懸命、御祈念さしてもらいよる。有難い御理解を頂いておると心の中が安らいでくる。心が有り難うなってくるね。そして、これはまぁ合楽の独壇場じゃないだろうけれども、一番、やはりこれは私の信心の芯とでも、いうならば、いうところでしょう。「成り行きを大事にする」という、自然の中にですね、成り行きの大事にしていくという生き方の、信心修行が出来ておると、成り行きの中にそれは、それはまぁ本当に、偶然とは思われない、すばらしタイミングの中にです、それが必然のような形で、様々なおかげが受けられるというのが、これは、もう合楽で、皆さんがけいこしておられる方達の、まぁ実感だと思いますね。教会でも、そうだけれどもね、一歩、教会の外を出らせて頂いてね、すばらしい、そこに生きた神様の働きを感ずることが出来るね。中もお風呂なら、一歩外に出た所も、やはりお風呂である。ジャングル風呂のような状態であったとこういうわけ。問題は、こちらの心がです、教会におる時も、外に出ても、同んなじような信心の修行というものがなされておる限りね、すばらしいタイミングの中に日々を過ごさせて頂けることがでける。「我身は神徳の中に生かされてある」という実感が頂けれる。というわけなんです。そういう、例えば、働きをですね、持っておるのが合楽の教会だとこう思います。昨日も、ある教会にお参りしておる。奥さんがお参りしておるという人が、小西さんと二人でお参りして来た。お酒屋さんです。私も実は酒屋だったんですよ、と色々な話をさせて頂いた。あれはその人の話を聞いて、一つ関心したことがある。お母さんが亡くなられる時にね、私のお墓には参らんでよかけん、金光様だけには参ってくれ、ち言いござた、その死なしゃったね。私は、それを思うとですね、やはりまぁ、飛び飛びじゃあるけれども、それを思い出すと、近所のまぁ、〇〇という教会にお参りする、と言うておりました。すばらしい信心が出来ておられた、お方ですね、きっと。私が死んだからというて、私のお墓には参ってこんでよかから、私を思い出したら教会に参ってくれとこう言われた。信心も全然なかった私でしたけれども、それを思い出すと、やはり、なるべくお参りさせて頂く。お参りをさせて頂いてお話を頂くと、金光様の御信心のお話は有難いお話だと。けれども、金光様の信心じゃおかげは頂かれんち言うんですよ。その人。息子さんが高校の試験に今度、受ける。そしたら、そのお導きをされた人がですね、それはどこじゃない。合楽に行ってみなさい。それこそ盲が目があく。あちんばが立ごたる、おかげを頂いとる話を聞いて、金光様ち、そげんおかげが頂けるですかち言うてから、だまされたごとついて来た。そして、ここで、いわばおかげの事実を、丁度、四時の御祈念の前でしたか、四時の御祈念を頂き終わってから、その色んな話を聞いてたまがってしまわれたね。そして、金光様の御信心ちゃね、日々、例えば健康で生活ができておるということが、有難いちいう話を聞きますけん、まぁおかげ頂いとるというて、それが、おかげだと、まぁそれが、おかげだと本当に分かりゃあ、すばらしいことなんだけれどもね。けれども、時々はご利益なおどというものが受けられんものだと思うとる。 私が、信司郎さん、今頂いておる、信司郎さんのお夢から頂くのはね、合楽の例えば、自動車というのは、動きよる、古風ではあるけれども。ゴミだらけでじゃあるけれども。まぁ、その方の言葉を借りて言うならば、自動車に乗った気持ち、信心しとる気持ちじゃおるけれども、その自動車はひとっも動きよらん。だから目的には着ちいうこと。ただ、自動車、自己満足、信心しとって、自己満足だけがあるだけであって、ご利益は受けられるもんじゃない。というふうに観念してしまっておるような感じね。そういう意味でです、合楽に御神縁を頂いておる人達は、成程、古風ではあるけれども、ゴミだらけの車ではあるけれども、いうなら、必ず目的に着くことが出来るということなんだ。しかも、自分の心の中に有難いものを頂こうと精進するならね、誰でもが、必ず有難くなれれるんだ。有難いものが心から出てくる。それをつなげていくという気持ちになりゃね、いわゆる、教会を出た外、いうならば、お風呂の外にもお風呂があるということ。自然風呂がある。だから、とにかくね、「火がともらなければ世は闇なりと、信心なければ世界は闇なり」というふうに仰しゃとられる、この二十一節の最後のところなんですけれども、自分の心にどういうような難儀なことを感じる時であっても、心の芯がかきたてられて火がともる。信心の熱じょうがかけられる限りですね、どういう例えば、もう、これは地獄の真中じゃろうかと思ういうような中にあっても、そこに極楽を感じることの出来るのが、私は信心である、まぁ合楽の信心の姿であるとゆうふうに思うんです。皆さんも、同感されることであろうと思います。ですから、そういう、例えば、本気での生きた神様というか、神様の徳を目で見せてもらえる、体験させてもらうのですから、今日の御理解から言うと、私共の信心の、いわば中心をなす、いわば芯になるようなものを一つはっきりと頂いて、それをいよいよ強化なものにしていくということ。いわゆる「信心とは有難とうなるけいこだ」ということであったら、どのようなことでも有難いという答えが出るところまでは、( ? )という、信心姿勢が必要であるね。いよいよの時には、それこそ「ままよという心」をださせてもらえば、十分の徳が受けられる。「ままよとは死んでもままよのことぞ」と。常日頃、生きた神様を目の当りに見ておる。生きた働きを感じ取らなければ、ここん所にこういう度胸は出来てこないと思うね。あれほどしに間違えのない神様ね、これほどしに間違いがないほどしにおかげを下さることの出来る神様。というのを日々、私は、体験していかなければ出来ることじゃない。
「神は天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受けものが悪ければ、おかげは漏るぞ」とね。おかげを漏らさず、受けて行くということは、やはり私は、徳を受けなければならん。その徳を受けるには、例えば、私が今日ずっと申してまいりましたようなね、信心のけいこが、日頃に積んでいかなければならん。そこからです、例えば、教会におっても、お家におっても、極楽を感じられる、いわゆる神様の御守護を身近かに感じれるほどしの、全ての上にタイミングのおかげを頂かなければならん。だから、そういう例えば、おかげを頂かせてもらうから、はぁ、こげんも間違いない働きを受けておるんだなぁ、ということ。まぁ日々そういう体験などを積んでいきよんなさる。
先日、(?名前)さんが散髪の御用をしてくださる。すんで、帰らせてんもらおうと思うて、お広前に出てから帰ろうと思うたら、丁度、久保山純さんがお参りしておった。まぁ一緒に乗って行って下さいと言われた。まぁ普通でいうなら、偶然だけれどもね、あ、神様のお喜び頂ける御用をさせて頂きゃ、もう神様がちゃんと、帰る車まで用意しておって下さる、という頂き方が一番、本当の頂き方なんです。しかも、それはね、いつでもそういうおかげが受けられるということです。だから、はぁ、ふが良かったというわぁ、ふが良かったになり、「神様のこのような間違いない働き」と頂いたら、全てのことが、このように間違いない働きの中にあるのだからといつも安心しておれれる。そういう働きはね、合楽にはいっぱいあるということなんです。(?)皆さんも体験しておられることでしょうがね、すばらしい神様のそういう間違いのない働きの中に、お互いが信心のけいこをしておるんですから、どういう中にあってもね、ひとつ信心の度胸を定めて、神様に向かうことが出来る、そこに和というものが、「十分の徳を受けようと思えば」という徳を受けさせてくださる、働きが待っておるのですよね。どうぞ。